東京都現代美術館「田窪恭治展 風景芸術」


「田窪恭治展 風景芸術」
会期は5/8まで。今週で終わりです。まだの人は急いで!!
(上の写真は、2001年既刊の展覧会図録より)


 
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世間は連休中ながら、エスは今日も打合せ。
夕方、打合せを終えてダッシュで「東京都現代美術館」へ。
なんとか展覧会の会期中に飛込むことができました。
ほんの短時間の鑑賞でしたが、とても濃密な体験ができました。
展覧会についてのレビューは、
http://www.axisjiku.com
に詳しいので、そちらを参照してください。
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田窪さんの思考、習作群、作品を実現させるための活動の数々。
この展覧会では、その彼の膨大な仕事(発表されないものも含めて)の一端だけが展示されているのすぎません。
ほんの一端、ではあるけれど、
展示されている内容は、
今、東京で立ち現れるべき「風景」を、彼の思考の中から適確に切り取っていると感じます。
田窪恭治にとって、作品とは「社会を、地域を、風景を、そして生きられる時間を美術化」することであるを僕は理解しています。
ノルマンディーで、琴平で、
田窪さんは厖大な時間をかけて「作品」を製作し続けてきました。
そして今回、東京で実施されている「作品展」では、
さまざまな彼の作品が「東京ヴァージョン」として姿を変えて、私たちの目の前に現れています。
今の「東京」のために、彼は、厖大に思考し、厖大に自分の「手」を動かし、多くの協力者の「手」をも動かしたのです。
その製作に関わるプロセスが観覧者に強く伝わってきたあと、ただ、「ああ、美しい」という感動だけがピュアに心に残ります。
展示順路にしたがって見ていくと、
最後のほうでいよいよ、進行中の作品「ヤブツバキ/東京ヴァージョン」が姿を現します。
これが凄い。
何人かの人たちが、
言葉も無く立ち尽くしています。
隣の展示ブースからバッハのチェロ曲が聴こえてきます。
その豊かなチェロの低音がなければ、その場所はもしかしたら、凍りついてしまうかもしれない。
それほどに凄い「絵画」です。
ああ、ほんとうに美しい。
僕がここに辿り着いた時はもう、田窪さんの公開製作の時間は終わってしまっていて、
ただそこには、描かれている途中の生々しい「絵画」が横たわっているだけでした。
いつまでも見ていたい。
僕は、閉館間際に来てしまったことを後悔しつつ、
でも、どんなに長時間観ることができても、きっと満足して帰れないだろう…
そんなことも、直ちに理解することができました。


追記:
しかし、ただ、
たとえば「田窪恭治」をあまり知らない人がこの展覧会を見て、素直に楽しみ、感動することができるだろうか?
そんな思いが少しよぎったのは、田窪ファンのひとりとして残念です。
難しくないはずの「美術」を、あえて難しくしているような気がする。
展示が「風景的」であるがために、余計な説明を意図的に省いていたのかもしれないのだけれど、必要なのは「説明」じゃない。
もうすこし、展示空間と展示物が一体となって、作品の質を十分に引き出してくれればなぁ..と思うのです。
とくにこの田窪作品は、もっといい見せかたがあるんじゃないか。
ファンには理解できるけれど、そうじゃない人たちは多分消化不良で終わってしまうんじゃないか。
それと、
僕は、この美術館での企画展示を見ていつも思うのだけれど、どうもここのキュレータは、大きすぎる展示空間と長い経路、重厚長大な建築空間を持て余しているキライがある。
現代において貴重な「そこにいて、本物、実物をみる」という行為のプレゼンテーションなのだから、もう少しどうにかならないのか。
べつに全部の空間にまんべんなく作品を配置する必要はないし、予算の配分ももっとメリハリがあっていい。既存の建築空間、展示残余の空間の企画を含めたキュレーションこそ、腕の見せ所なのだと思う。

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さて、明日は5/5こどもの日。
数ヶ月ぶりの休日を頂いて、息子といっしょに過ごそう…とりあえずそんな予定で。
  


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